焼津神社に行ってきました
先日、仕事のついでに日本武尊(やまとたけるのみこと)御祭神の焼津神社に寄ってみました。
焼津神社はかなり大きな神社です。
焼津神社
日本武尊(やまとたけるのみこと)
- 日本武尊は12代天皇である景行天皇の息子です
日本武尊は12代天皇である景行天皇の息子にあたります。
日本武尊は父親の景行天皇の命令で、大和朝廷に従わない熊曾(くまそ:熊本県で大和朝廷に従わない勢力という説が有力)の平定を命ぜられます。たいした軍勢を与えられないまま遠征したのですが、熊曾を平定し、さらに出雲の出雲建(いずもたける)を倒し、無事大和へ戻ります。
ですが父親の景行天皇は、息子の力を恐れ、休む間もなく東国の平定を命じられます。
そして、倭姫命(やまとひめのみこと:第11代垂仁天皇の第四皇女で日本武尊のおばさんになります)から天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と、火打ち石の入った袋を授かり東へ向かうことになります。
焼津の地名の由来
- 焼津は焼けた津から焼津となった由緒ある地名です
父親である景行天皇の命令で東に向かった日本武尊ですが、駿河(静岡県)のとある津(津とは船着き場、渡し場の意味)に差し掛かった時、この地を治める敵に欺されて草むらの中で四方から火を点けられてしまいます。
このとき日本武尊は、倭姫命から授かった天叢雲剣で草をなぎ払い、火打ち石で逆に敵に向かって火を放ちました。
炎は向きを変え、勢いよく敵に向かって燃え広がり、日本武尊は九死に一生を得ます。
以後、この津は「ヤキツ」といわれるようになり、現在の「焼津(やいづ)」という地名の由来となったのです。
「焼津」という地名には、1,300年以上の歴史があるといいます。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)の由来
- 天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)が草をなぎはらったことから草薙の剣に
日本武尊が駿河で野火攻めに遭った時、天叢雲剣で草を薙ぎ払ったことから、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)は草薙の剣(くさなぎのつるぎ)とも呼ばれるようになります。これが草薙剣(くさなぎのつるぎ)の由来です。
現在草薙の剣は名古屋の熱田神宮にお祀りされています。
静岡市には草薙という地名が現在でもあります。例えば、草薙球場の名は多くの人が知っていると思います。焼津と言う地名も残っているし、日本武尊の物語は単なる伝説ではないと私は思っています。
日本武尊の像
焼津神社には御祭神の日本武尊の像があります。
焼津神社の日本武尊の像
焼津神社の日本武尊の像ですが、かなりごつい印象を受けます。
ただ、上にも書いた熊曾の平定では、日本武尊の叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)から与えられた着物で女装をし、相手を油断させて熊曾兄弟を殺したという話です。
日本武尊は女装をしたら本当にきれいな女性に見えたと想像します。
ですから私の頭の中では、実際の日本武尊は俳優の京本政樹のような美形男子だったと思っています。写真の像のようなおっさんではないと思いたいです。
日本武尊は享年30歳ということでかなり若くして亡くなっています。
神武天皇像
焼津神社には初代天皇の神武天皇像もありました。
焼津神社の神武天皇像
初代天皇の神武天皇はもともと宮崎県の出ですが、40歳のとき日本を治めるには宮崎県のような日本の端ではなく大和地方が良いだろうということで、「神武東征」の旅にでます。
神武東征はかなり時間をかけ、道筋の地方の有力者と協力関係を結びながら実施されていきます。
こうしてついに大和に入ったものの一度はその地を治める長髄彦(ながすねひこ)の軍勢に敗れてしまいます。
二度目に長髄彦(ながすねひこ)の軍勢に相対したとき、金色の鳶(とんび)が飛んできて、神武天皇の持つ弓の先に止まり、長髄彦の軍は眼が眩んで戦うことができなくなり、神武天皇の軍勢が勝つことになります。
この時の様子を表しているのが、写真の像なのだそうです。
神武東征の話
神武東征(神武東遷)の話は宮崎市の公式チャンネルに動画がアップされています。興味のある方はご覧ください。
神武東遷(宮崎から橿原市までの神武天皇の歩み)(音声注意)